23日〜25日まで、沖縄のホシギス釣りに行ってきた。同行は、今や世界を股に駆ける村越正海氏との二人旅。私にとっては正に遠征釣行なのだが、村越さんにとってはごく日常的な釣行なのである。
昼着のフライトで那覇空港に着く。待ってくれたのは「ほぼ完全攻略本出版局」という、月刊釣り新聞の編集発行人・佐久川政一郎氏であった。先ずは腹ごしらえと云うことで、案内されたのがソーキそばの専門店だ。ソーキそばと云う名は聞いたことがあるが、私にとっては初めて口にするものであった。ソーキとは、言うなれば、うす甘く軟らかく煮付けられた豚のスペアリブである。そばは、ラーメンとうどんの間を取ったような太さと硬さのちぢれ麺であった。つゆは、決して肉や脂が邪魔をせず塩加減も薄口で、実にダシが良く利いた美味な一品であった。
ところで、過ごした3日間で一番困ったのは「漢字」の読み方である。信号機に付いた案内板を見ても読めないから、地名が正確に覚えられない。口で言われ、地図で探すがそうは読めないから分からない。まるで、外国にでも居るような気がしてならなかった。
さて、一日目の釣り場は名護市の「屋我地島」と云う所である。そこは半島状に突き出した、小さな貝砂で構成された砂州であった。先端で釣っていた夫婦のバケツに泳ぐ、大きなホシギスをを見て元気が出る。その奥さんは、小さいのが釣れた・・と、サラッと言う。我が目から見れば25センチにも近いジャンボであり、これを小さいというなら・・、もしやもっとのジャンボが期待できるのか?と気がはやる。
餌は、シマミミズが良いと聞いていたが寄った釣具店にはどこも置いてない。私は高知産のジャリメを用意してきたが、村越さんは東京スナメを持ってきている。私のこの日の道具だが、サオは例のダイワ・モアザン/カムイツクシイ、仕掛けは東京アブミ8号の3本バリとし、ハリスはホンテロンの1・2号、幹はフロンの1・75号を主として用意してきた。先ずは、ジャリメを1匹掛けにし4色に向けて投げた。その瞬間だった。バサ!!とラインが放出し、バチリッ!とラインが切れてしまったのだ。昨晩、情報誌からラインはPC3号と言う事を知り、別のスプールから急ぎ巻き変えてきたものである。スプールが細イト用であったため太いラインがはみ出だし、おまけに緩く巻かれていたのだ。これくらいなら大丈夫だと過信していたことが仇になってしまったのだ。急いで、力イトや仕掛けを換える。だが、今度はライン不足で3色しか投げられない。
村越さんは遠投での待ちの姿勢である。根掛りが多く、極端にサビいての釣りは危険が伴う。暫くの後、きた!、きたきた!!と、村越さん。上げた初物は25センチ級のホシギスであった。これを見て私はPE1・5号の代えスプールに付け替えることにした。しかし、サオを持ち、全神経をサオ先に向けるがいくら頑張っても一向にアタリは無い。
村越氏は流石だ。既に3尾も釣っている。私もエサを東京スナメに代えてみた。・・どうやら、これが今日本命のエサらしい。ガツン!としたアタリが来たのである。根に掛からないように慎重に上げる。23センチはあろう、立派なホシギスだった。これで安心・・以後、暗くなるまで頑張り数尾を釣って初日を終わる。
この日は名護泊まり。ホテルに荷物を置き、二人の釣果10尾?をもって居酒屋「やんばる・大国林道」に行く。佐久川さん昵懇の店で、シロギスを料理してもらう。村越さんも顔が広い。店主の中田一也さんとも旧知の間柄だったのは流石だ。実は、この日私は名護市に住む学友上原泰守夫妻と会うことが出来た。彼は大学時代レスリングで鳴らした男で、卒業後は、沖縄北部農林高校の教師としてレスリング部を全国に知らしめた功績を持つ。電話で呼び出しこの居酒屋に来てもらったのである。三年前、同窓会で会って以来で、久し振りに旧交を温めることが出来た。
そして乾杯。勿論、最初は「オリオンビール」。その後の本命は、勿論「泡盛」であった。
初日から期待のホシギスが釣れたし、美しい島、温かい気候、澄んだ海、旨いそば、旨いビール、旨い泡盛、明るい人々・・・そう、悪いところなど一度も感じないような、そんな素晴らしい一日であった。また明日が楽しみだ。
沖縄・・ホシギス(一)
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執筆者:東京湾展望台