一人の職業的フィッシャーマンが、釣りに挑む姿を文字と写真を使って赤裸々に紹介してくれたのが、このタイトルの本である。自身を“職業釣師”と言えるのはただ一人、村越正海氏をおいて他にないだろう。また、“釣り師は彼の天職である”とも紹介されている。 正に私自身もそう思う。
長い付き合いの中で、彼が「釣りに対して良くもそこまで頑張れるのだろう。」と、しばしば考えることがある。しかしそれは、それが彼自身の聖職であり、それ以上にプロフェッショナルだからだろう。とは言いながらも、実は、彼は心底釣りが好きだからこそなのだろうとも考える。
少し違った背景を考えると、かって「釣師を職業」(漁業者でなく)にと考えた人はあろう。しかし、それで家族までの生活を支えていくことはできない現実に気付き、多くは中途半端な域で留まっている。・・成功への発想や努力をしたとしても・・・。
ところが、彼は、今日まで「自らが頑張ればきっと開かれる世界である。自分がその先導をしなければ・・」といった信念に強く支えられているのだと思う。
今、彼の持つ、フィッシング上の肩書きは沢山ある。ライター、リポーター、コーディネーター、プロデューサー、タレント、そしてフィッシャーマン・・と多岐だ。
彼は、或いは彼を取り巻く人たちは、こうした全てをまとめて職業的釣師とかプロ・フィッシャーマンと呼ぶのかもしれない。だが私は、彼がそうした呼ばれ方を良しとすることは本心ではないような気がしてならない。彼は自身の存在を、もっと相応しく確立した表現が出来るような「呼称」の確立をも目指して、行動しつつあるような気がする。
彼は、07年の年頭にあたり「今年は、自分で考える自分自身の価値観を大切にしようと考えています。すなわち、自分自身を、自分自身が考えている価値より下げて安売りしないこと。」と述べている。大賛成である。そして今、淡々とその方向に向かって動き出している。ただ、具体的にそれが何かは分からない。しかし、皆さんにはこれからの彼の活躍を、私とともに期待してほしいと思う。
さて、ここでは、発売当日に早速読ませてもらった彼の著書「職業釣師の悠々釣記」について、私なりの感想を書きたかったのである。・・が、にも拘らず、つい普段感じていた事を先行してしまった。
講評などと、おこがましい事は書けないが、一言で言えば、私自身が釣り人の立場から言わしてもらって「大変面白く、興味を持って完読させてもらった。」ことである。
一つは、豊かな表現力によって、その描写が頭をよぎり、次のページの写真によってそれが増幅する。二つは、私とは違ったジャンルだが、釣りがこうも面白く、知った積りの海がこうも豊かであったと改めて知った。三つは、釣りには長い歴史があるにも拘らず、釣技は延々と今だ未知の世界にある事も良く判った。
そして最後(実は最初に言いたかった)は、項目無き巻頭の文である。正直言って私自身、常に感じている「釣りに対する信念」そのままが、ここに凝縮されて書かれているのである。
指すのは、007頁の「釣りは妥協なき“道”でもある。」に始まって最終章009頁の、釣りとは「基本の上に発展がある。基礎の上に応用がある。」「ありのままに、あるがままに、・・・釣りと言う“遊び”そして“道”の奥深さを知れば知るほど驚くばかりである。」・・・と、どうだろう!
あなた自身、目ざす獲物の対象を代え、ジャンルを置き換えて読んでみてほしい。言うなれば、どんな釣り人にも通じた“釣りの基本理念”みたいなものがここに書かれていると思う。
そして、欲を言えば、次回には専門領域の釣りを少しトーンダウンさせ、釣行時に出会った人との対話や人情話、海や地方の美しい風景や自然との出会い、人間村越であってもある失敗談や恥じかき、更には「自然や環境を破壊するあらゆる敵」に対する“果たし状”など等・・。これらをエッセイ風にまとめ上げてくれたら・・それこそ、少ししか釣りの楽しさや豊かさを知らない人たち、釣り観に悪い印象を持った人たち、これから釣りを始めたいと思う人たち・・そういった人々から必ず共感を得られるに違いない。
“開高健”の、下手な釣り技と、すぐれた文学的な文章表現力。・・・これに対比できるような、上手な釣り技と豊かな洞察力をもって、そのままを、少しだけ文学的な表現によって整えた文章・・これは、何ら文才も何も無い私が望む“村越正海”の姿である。
職業釣師の悠々釣記
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執筆者:東京湾展望台