昨日の新聞湘南版に「春シラス好調」の記事が出ていた。つい先日もローカル紙に取り上げられていたが、この事で大いに気になることがあり、思うことを少し書いてみた。 シラスは、社会一般には春を告げる風物として、或いは、漁師町の名物料理として貴重な存在ではあろう。しかし、問題は、これが大漁に漁獲されていることだ。ある船は1船だけで連日150キロの水揚げだと言う。これが解禁期間中、獲れ続くとは考えはしないし全くの不漁の時もあろうが、それにしても相模湾だけでも何十船ものシラス船が沖合で連日ナブラを追い、その漁獲総量たるは計り知れない。 海洋国である日本人なら誰しもが、自然の摂理と云うか食物連鎖のことは知っている。小生は漁業者ではないが、趣味の海釣りを通じて一般の方より身近な問題としてこの事を感じている。 カタクチイワシの幼魚であるシラスは、多くの魚類のエサとなって有用な食用魚を育て、我々の貴重な食料資源となっている。まさに、シラスは食物連鎖を支える原資源であると言って過言ではない。 多くの漁業関係者は「近年魚が獲れない。魚が減ってしまった。」と云う。シラス漁の漁師でさえも同じように嘆いている。 釣り人も、全く同じように「魚が居ないし釣れない」と云い、その原因は「多量に獲られる沖獲りシラスに違いない」と多くが感じている。 実は、過日、漁業関係者の集まったある席で、漁業者の方から「同じ漁師仲間としてシラス漁批判を公言できないが、今や多くの漁師も気づいている。」と、いみじくも語っておられた。 小生は専門家ではないから具体的なことは分からない。しかし、少し意識を高めてみれば、漁業の世界はそもそも科学的根拠が薄い中で操業されていると言うか、明確で確実な予見が付かない中で行われているようにしか思えない。 だから皆は、「魚が居ない、獲れないこと」の要因を、「環境の悪化だ!温暖化のせいだ!」と、安易に許し諦めてしまっているのではなかろうか。 確かに環境の変化は有ろう。だが、果たしてそれだけだろうか。魚が棲む海は有限であり、当然、魚の量も有限の世界で捉えなければいけないのではないか。 科学が進んだ今、関係行政機関ならそれをコントロールできる筈である。漁期や漁獲量、漁獲方法等々を常に把握し、肌で感じる規制を加えて見ても良いのではないか。 もう何年も前、シロギス釣りの漁期を自主禁漁し一時大いに回復させた実績がある。再びこのようなコントロールを願いたいものである。 こんなことを考えると、ついつい冒頭に言ったシラス漁の存在が気になるのである。 漁師町或いは相模湾沿岸に沿った街や観光地を歩くと「生シラス有り〼」とか、「シラス丼有り〼」とか書いたノボリ旗がやたら目に付く。 テレビでは、取材費のかからないご当地ものの「食べ歩き」とか「グルメの旅」とか言って、シラスを賛美し食を煽っている。 一体、どれくらいのシラスが獲られ、そうした市場に供給されているのだろう・・。数にすれば数億、数百億の膨大な量になるのではないかと身震いしてしまう・・。 シラス船が釣り場のすぐ近くまで来て網を入れる。時には、投げたオモリがぶつかる距離にまで迫ってくる。 今日は釣れなかった。…だが、明日は釣れるだろう!!・・・・以前は、このように明日に期待が持てた。 だが、今やそれは遠ざかり、明日も、その先も期待が持てない。・・・真っ暗である。 いま、そんな雰囲気が漂う釣りの世界である。マスコミもこうした観点から実態を調べ、記事にしてほしいと思うのであるがどうだろう。