人から嫌われるのには訳もあり原因も分かる。しかし、釣りに於いては、獲物からも、海からも嫌われてしまうと、どうもその理由が分からなくなってしまう。
そんな昨日の釣行だった。釣り仲間は、ブログ「釣りにおでかけ」でお馴染みのプーさん等5人で、南伊豆に行ってきた。
先日、一番良い思いをした砂浜にプーさんを案内した所、彼女は、たちまちの内に良型数尾を釣りあげてしまったのである。・・・しかしながら、ゆとりを持って始めた小生には、大物1尾が釣れただけで後はさっぱり!!
帰りまでに、プーさんは8尾。波止を中心に攻めたご亭主が何と24尾と大漁。和田さんが14尾。和田兄さんが7尾。・・・そして、方々歩き回った小生はたった5尾の貧果だった。
さて、ここで思うのだが、何故こうした一人貧乏みたいなことが起きるか? 仲間との釣行時や、釣れている場所でありながら、一人だけ見放されてしまったことは誰でも経験することだが、・・それは何故なのだろうか??
こうした時、小生は場所替えを基本として、仕掛け等を換えることを原則としている。エサや垂らしの長さ、ハリ数や大きさ、本数、エダス間隔やエダスの長さ、ミキ糸の長短等々・・。さらにダメなときには、スプールや竿もリールも交換することすらある。
昨日も、竿やリールこそ換えなかったが、仕掛けはいろいろ換えてみたし、場所も広く探ってもみた。・・だが、ダメだった。
自分では、釣りが特別上手だとも、特別下手だとも思っていない。ただ、釣りは大好きだし、人より釣行回数も経験年数も多い。・・・応用動作もできると思う。
以前なら、仲間との釣行で途中までダメであっても、最後には帳尻を合わすことが出来た。だが、最近これが出来なくなってきたし、昨日も同じだった。
今も、ダメの原因や疑問を解こうと思い出しているのだが、なんら明確な答えは出てこない。
判っているのは、釣りをしていれば、こんなことはままある事だ! それが釣りと云うものだ! そして諦めるのだ!・・と、そんな投げやりな結論に至ってしまう。
いや、しかし思うと、中でもこの「諦め」が一番問題なのかも・・・・。道具ではなく、精神的、心的不安定に発する「諦め」なのかもしれない。
小生が生まれたのは野山が桜花に覆われるこの頃、4月7日が誕生日である。
正月の挨拶でも書いたが、遂に75歳の後期高齢者の仲間入りをしてしまった。だからと云って、脳は少々緩んではきたが、まだ、ボケは始まって居ない。身体も至って健康である。・・これがダメ理由ではないと思う。
人生長くやっていると、物事に対し粘りも薄れ、安易に許す側に立って考えるようになる。だから、釣りに於いても、これが出てしまうのかもしれない。言うなれば、考えたり動き廻ったりすることが、時にカラ回転したままの状態で過ぎて行ってしまうのかもしれない。
釣り場では、直ぐにこれでは釣れないと考える。だから、直ぐに場所を替える。直ぐに仕掛けを変える。サビキも待ちも乱れる。周りの動きに惑わされる。・・いわゆる悪循環に陥ってしまうのかも・・。
帰り道、車中で皆から慰められてしまった。6日の好釣りと今日の貧果を相殺すれば、十分人並み以上に釣れたではないか!・・・と。
そう、思い出した。4月6日は我が誕生記念イブであったのだ。 早朝に起こされ、単独釣行の先では良型のキスが大勢で迎えてくれた。
・・・こんなにも天からの恵みに支えられたではないか!
いま、「釣れなかったことの不甲斐無さを次の釣行の力に代えて」、それこそ、「直ぐにでも」釣行したい!・・そんな新たな思いに掻き立てながら、キーボードから指を放すことにした。
追伸!!
いったい、何を言いたかったのだろう?何が結論なのだろう? ・・・結局、釣れない理由は見い出すことはできなかったようである。
嫌われの原因は??
投稿日:
執筆者:高澤鱚介